【Player Spotlight】久野 克宜選手|TALACO
いま注目の選手を紹介するLACROSSE PLUSのPlayer Spotlight!
日本ラクロスはいつどうやって始まったかそのきっかけご存知ですか?
慶應義塾大学男子の先輩方が日本で始められたのが起源なのはみなさん周知だと思います。
ではその日本でラクロスを広めるきっかけとなったその慶應義塾大学男子の “パイオニア” は “誰”なのか?
今回ご紹介する方は日本パイオニアとして日本にラクロスを広められた方のお一人なのです。
そして今も現役で日本のクラブチームでプレーをされているこの選手にSpotlight!
久野 克宜選手|TALACO
【名前】 久野 克宜 (ひさの かつき)
【所属チーム名】 TALACO
【年齢】 51
【出身大学&学部】 慶應義塾大学 経済学部
【出身地】 神奈川
【職業】 小売業
【プレー中に呼ばれる名前】 本来は「カツキ」と呼ばれているのですが、今はみんな気を使って久野さんになっています・・・
【ラクロス歴】 プレーしている通算はたぶん9年くらい
【ラクロスでの受賞/選抜歴】 1989年 男子日本代表(日本で最初の代表チーム)
【ポジション】 現在はDF、元々はMF
【所属チームの今期目標】 東日本ファンリーグ優勝
【所属チームSNS】
Facebook:https://www.facebook.com/tamalacrossecompany/
Twitter:https://twitter.com/TalacoLacrosse
【好きな芸能人のタイプと理由】最近、同世代のJリーガー 三浦知良選手のコメントに共感します。年齢を重ねる中で、どのように競技と向き合い、チームやリーダー、指導者と向き合い、そして自分自身と向き合うべきか、といった考え方がとても心に刺さります。
【趣味】 旅行、野球
【これだけは負けないという特技】 特にないと思う。一芸に秀でた人たちをたくさん見て来たので。。。
【好きな曲・テンションが上がる曲】Can’t take my eyes off you (やっぱりBoys Town Gangのバージョン、古いですが…)
【好きな言葉】 No pain, no gain
【好きな食べ物】 ラーメン
【使っているラクロスのブランド】 ヘッド:Warriors Evo Warp Pro、シャフト: Warriors
【ラクロスを始めたきっかけ】 付属高でフィールドホッケー部の主将をやっていたこともあり、大学に行けばこのまま体育会ホッケー部で4年を過ごすことが半ば既定路線のようになっていた。決められた道に進むことに抵抗があって何か新しいことを始めたいと思っていた矢先に、同じように新しい「何か」を探していた高校の友人達とたまたま新スポーツとしてテレビなどで紹介されていたラクロスに出会った。
でもラクロスを実際に始めることが出来たのは、決して自分達の力だけではない。ネットのない時代、ラクロスに関する情報は極端に少なかった。ラクロスがカナダの国技と聞いて訪れたカナダ大使館で紹介していただいた、日本ラクロスの父・ノリオ・エンドーさん、そして彼のLacrosse Makes Friendsという趣旨に賛同しラクロスの普及のために協力を惜しまなかった本当に多くの社会人の方々のサポートがあって、私達はラクロスを知り、体験し、試合をする機会をもらうことが出来たのだ。いま、あの頃サポートしていただいた方々と同世代になってみて、いかに忙しい日々の中でこうした皆さんが我々学生のために時間を割いてくれていたのか、そのご尽力の大きさを改めて身に染みて感じている。
初めてのアメリカ人コーチ(JHUのボブスコットさん)の来日の際に、アメリカンクラブで記念撮影した時のものです。日本ラクロス誕生の年で、まだ慶應の男子メンバーだけでした。この写真にも、いかに多くの社会人がラクロスの立ち上げに関わっていたかが分かると思います。
【ラクロスを始める以前に行なっていたスポーツ】野球、サッカー、フィールドホッケー
【ラクロスのこれが好きなんだよなって思うプレー中の瞬間は?】 1on1の場面で「こいつ来るな!」とか、「よし行くぞ!」と気合を入れる瞬間
【一番思い出に残っているラクロスの試合は?】 1989年に行われた日本ラクロスにとって初めての国際試合、日本代表 対 オーストラリア代表戦で0-50で敗戦したこと。何もかもすべてにおいて全く歯が立たたず、衝撃を受けた。
【あなたのラクロスにおける目標】 MFとして、公式戦で点を取ること(これは目標というよりもほぼ夢になってしまったけれど)
LACROSSE PLUSの読者へメッセージ
私を含む慶應義塾大学の初代はよくラクロスを始めたパイオニア世代と言われるのですが、ラクロスが日本で競技スポーツとしてこれほど確立したのは、ラクロスが始まってから最初の十数年くらいの間に、日本各地で数多くのラクロッサー達・社会人の協力者の方たちが熱意と創意工夫、そして大きな労力を続けてラクロスを普及・発展させていったからだと思っています。その意味でパイオニア世代というのはもっと広くとらえるべきだと私は思います。
さて、私は40代半ばにさしかかる頃に、ふと50歳になったらまた何か新しいことを、と考えるようになったのですが、その時やはり真っ先に浮かんだのはラクロスにプレーヤーとしての復帰することでした。以前プレーしていた時にはうまく使えなかった左手も使って、ちゃんとプレーがしたい!と思い数年前から細々とトレーニングを始めたのですが、20年近くもクロスに触っていなかったこともあり、なかなか現役復帰への自信が持てずにいました。
転機はカナダのトロントに仕事で赴任したことでした。現地でノーコンタクトのボックスラクロスのリーグに入れてもらうことになり、私の考え方が変わりました。このリーグでは、ラクロスの初心者や女性のラクロッサー、私と同年代以上の年齢のメンバーが一緒になって、週1回日曜日に1時間試合をするのですが、とかくプレーするには敷居が高く感じる日本と違い、ラクロスが草野球のように気軽にプレーされていました。またおよそ速く走れそうにもない年配のラクロッサーでも、得点のチャンスと見るや、私が追いつけないほど全力疾走でプレーに参加するのにも驚かされました。私が何度もアメリカ人コーチから言われた “Go to the goal!!”の精神を見事に実践しているのです。ただラクロスが好きで参加し、やるからには得点を取りたいと思って全力でプレーする。上手い下手なんかより、シンプルにラクロスを愛する気持ちが大切なのだと感じさせられました。
今も自分のカラダにはいくつもの問題を抱えていて、昔のように100%の力でプレーすることは叶いそうにありません。それでもそんな自分に向き合いながら、いくつになってもラクロスを楽しむことが出来ることを示すことも、パイオニアと呼ばれる私の役割の一つかなと思っています。そしてまた後に続くパイオニア世代の皆さんが、私の記録を超えて行くであろうことを楽しみにしながら…