【ラクロス団体コラム】Japan Box Lacrosse Column 〜日本でボックスが始まるまで〜
ー ボックスを始めた当初を振り返り
ボックスをできる場所は確保したものの、そこからの最初の1年はまさに「産みの苦しみ」でした。とにかく人数が集まらない。神戸大学の先輩後輩、ラガマフィンズ時代のチームメイトやライバルチームの仲間たちにも幅広く声掛けをしながら運営しましたが、集客は本当に苦しかった。。。みんなボックスに多少なりとも興味はあるものの、やはり新しいものに初めの一歩を踏み出すにはそれなりの時間が掛かるものです。たった3人しか集まらず、延々とシュート練習しかできなかった思い出もあります。どうしてもゲーム形式の練習がしたくて、たまたま居合わせたインラインホッケー選手に人数合わせで入ってもらったことも何度もありました。当然そんなときは、リンクの予約料金は参加費用からでは賄えず、何度も自腹を切りました。導入時にアメリカから取り寄せたボックス専用ゴール、ゴーリーギアなどの出費もかさみ、気が付いたら初年度の赤字額は数十万円になっていました。この時期は、精神的にも経済的にもタフな状況ではありましたが、自分には「ボックスは日本でも絶対に受け入れられる。」という確信がありましたし、なにより自分がやりたい事をやっているだけだったので、変な悲壮感はなく、「どうやったらみんなにボックスの魅力が伝わるか。」だけを、日々考えることが楽しかったと、今では記憶しています。
JBLの活動も2年目に入り、徐々にボックスの認知が上がり、一度経験してその魅力にはまっていくラクロッサーの数が増えていきました。個人的に親交のあった、フィールドラクロスの現役日本代表選手も参加してくれて、宣伝してくれたりしたのも大きかったと思います。今思い返しても、あの頃は本当に幸せな時間でした。回を重ねるごとに、新しいラクロッサーがどんどん集まってくれ、色々なプレーやパーソナリティに出会う事ができました。まさに「Lacrosse Makes Friends」で、これがラクロスの持つ力ですね。みんなで一緒にゼロからイチを創っていく、そんな感覚でした。
ー 次ページ ー
ボックスの転機がきた。