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【ラクロスコラム】#10 受け継がれるフロンティア精神|SELL代表 柴田 陽子

「フロンティア」という言葉は、私にとっては非常に馴染み深い言葉です。
今回はこの言葉のルーツを紹介しながら、ラクロスの歴史についても触れていきたいと思います。

辞書で調べると「フロンティア」には下記のような意味があります:
①国境地方。辺境。特に、米国開拓時代の開拓地と未開拓地との境界地域。
②未開拓の分野。新分野。また、学問・技術の最先端。最先端の業績。

日本ではあまり聞かない言葉かもしれませんが、アメリカ文化においては大切な意味を持つ言葉です。小学生時代をアメリカで過ごした私は、歴史を学んでいく中で、この言葉を何度も耳にしました。アメリカでは4年生時に住んでいる州の歴史を深く学びます。私はカリフォルニア州に住んでいたので、たった150年のカリフォルニアの歴史を1年かけてじっくりと学びました。その中のキーワードのひとつが「フロンティア」でした。

アメリカは日本に比べると非常に歴史の浅い国で、国家として独立したのは1776年のこと。中でもカリフォルニア州は最も西部に位置する州で、ヨーロッパに近い東海岸側から栄えたアメリカでは、1840年頃まで白人はほとんど住んでいない未開の地でした。しかし、1849年にカリフォルニア州で金鉱が発見され、これが後に「ゴールドラッシュ」と呼ばれる大規模な西への住民移動の現象に進展します。サンフランシスコの人気アメフトチーム49ersの49はこの年号に由来しているほど、1849年は大きな転換点だったのです。この時代は「西部開拓時代」と名付けられ、アメリカ形成期を象徴する重要な時期と言われています。

5年生になると、今度は州ではなく国という視点からアメリカの歴史を学んでいきました。もともとアメリカ全土には多くの先住民族が住んでいたこと。17世紀初頭、イギリスで弾圧を受けたピューリタンと言われる教派の人々が、言論の自由を求めて北米新大陸に移住を決めたこと。それを境に、イギリスを中心とした欧州諸国から大量の移民が未開の地での自由な生活を夢見て海を渡ってきたこと。東海岸も次第に人が溢れ、更なる未開の地を求めてアメリカ全土に移動が広がっていったこと。そして、ゴールドラッシュを皮切りに一気に西部への大移動が加速したこと。州の歴史だけではわからなかった西部への移動の全体像が見えてきました。移住者たちは、ヨーロッパから遥か遠いアメリカへわざわざ渡り、そこからさらに西の未開の土地へ、なぜ移動を進めたのか。そこには今でもアメリカに受け継がれる、大事な考え方があると言われています。

アメリカへ移動してきた人々が重視したのは、「自由」です。自由とは信仰・言論・表現の自由であり、国王や貴族による支配からの自由。自由の国というのは国歌の中でも触れられており、今でも、自由への強い思いはアメリカ人の根底にあると言われています。だからこそ、未開の地での自由な生活を求め、西へ西へと向かったのです。言い換えれば、誰も足を踏み入れたことのない土地への道を切り拓く彼らの「フロンティア精神」も、この時代からずっとアメリカ文化の一部であったというわけです。

フロンティアという言葉自体が定着したのは、1890年代のことです。1893年に発表されたフレデリック・ジャクソン・ターナーの論文「アメリカ史におけるフロンティアの意義」で、「フロンティア」がアメリカ史において何を意味するのかを定義付けたのがきっかけと言われています。ターナーはこの中で、未開の荒野と開拓者の文明が出会ったアメリカのフロンティアこそがヨーロッパにはない「アメリカの独自性」を作ったと述べました。これは「フロンティア学説」と呼ばれ、その後のアメリカ人の価値観に大きな影響を与えることになったのです。アメリカの言うフロンティアへの挑戦は、実際には先住民族の掃討の側面が強く、誰の視点からその歴史を読み解くかで大きく変わるものですが、少なくともカリフォルニア州の私の学校では、自由を求めて「フロンティア」へ挑んだ先祖の話は英雄伝説のように伝えられていました。

フロンティアという言葉が再び脚光を浴びたのはその約70年後、アメリカの第35代大統領ジョン・F・ケネディが「ニューフロンティア政策」を打ち出したときでした。ケネディは、1960年に民主党の大統領候補指名受諾演説を、西海岸の最大都市ロサンゼルスで行いました。ケネディはそこで、かつて先祖がフロンティアを切り拓いた人々に向け、アメリカは地理的な意味のフロンティアは19世紀末に消滅したが、宗教・戦争・偏見・貧困といった新たな問題への挑戦を求められていると訴えました。ケネディはそれらを「ニューフロンティア」として提示し、国民一人ひとりにニューフロンティアの新たな開拓者となるよう求めたのです。この頃からフロンティアには辞書の②の意味での捉えられ方、つまり、地理的な意味での未開だけでなく、様々な分野における未だまだなされていない挑戦を表す言葉として活用されるようになっていきました。

ラクロスは、こういったアメリカの文化形成とともに発展してきた北米大陸で最も歴史が古いスポーツです。ラクロスの起源はアメリカに欧州からの移民が増えだした1630年代にまで遡り、当時北米の先住民族が鍛錬のために行っていたstickballという行事が原形だといわれています。その行事は数日間にわたって行われる大規模なもので、時には数万人という人数が参加していたそうです。stickballに使用していた道具をフランス系の移民が、僧侶が持つ杖(Crosse)に似ていたことから「La-Crosse」と呼ぶようになったことが名前の由来と言われており、1830年代にカナダのモントリオールで先住民に教わりながら現地の人々がスポーツとして楽しみ始めたところから、競技としての歴史が始まりました。こういった歴史的背景を尊重し、ラクロスの世界大会では、アメリカとカナダにまたがる保留地を持つ先住民の部族集団「イラコイ連邦」が単独チームとして参加しています。

その後ラクロスはカナダを中心に拡大し、1856年には初のクラブチーム「モントリオール・ラクロス・クラブ」が発足。その11年後にはカナダ自治領が成立し、その中で80チーム近くにまで広がりを見せ、カナダの国技に指定されました。1883年に結成されたカナダとイラコイの合同ツアーチームがスコットランドに遠征をしたことをきっかけに、欧州にも競技が伝わっていきました。この後、イギリスで女子ラクロスが盛んに行われたため、女子のユニフォームには、スコットランドの民族衣装に似たタータンチェックのスカートが日本でも多くのチームで用いられていました。20世紀に入る頃には、ラクロスの人気は北米以外の数か国の間でも高まってきており、1904年・1908年のオリンピック夏季大会の公開競技としても実施されました。その後、1928年、1932年、1948年の各オリンピックでも公開競技となったラクロスは、1967年に男子の第1回世界大会(カナダ・トロント)が、1982年に女子の第1回世界大会(英・ノッティンガム)が始まり、4年に1回のこの大会はラクロスの世界一を決める大会として今も続いています。そして、21世紀に突入してからこの20年で、ラクロスはさらに目まぐるしい成長を遂げています。

現在、ラクロスはアメリカで最も急激に成長をしているスポーツの一つとして広く認知されています。USLacrosseの調べによると、2001年から2018年までの間でアメリカ国内のラクロスの参加者数は2.27倍になり、高校生の部活数は過去5年で25%増加しています。また、アメリカでは大学レベルで他のどのスポーツよりも高い卒業率(男88%、女94%)を誇っており、それも人気上昇の一因となっています。ここ数年で男子のPLL・女子のWPLLなどのプロリーグも発足し、テレビでもラクロスのプロリーグが放映される時代が到来しました。世界的に見ても、現在ラクロスの国際連盟であるWorld Lacrosseには66か国が加盟しており、2021年の女子世界大会も史上最多となる30か国が地区予選を経て参加します(1997年:7か国・2005年:10か国・2013年:21か国が参加)。

一方で、日本におけるラクロスの歴史はまだまだ浅く、本格的に競技が始まったのは1980年代のことです。実はその前にも、何度かラクロスを北米からの伝道師や教師らが根付かせようと試みたそうですが、どの挑戦も長続きはしなかったといいます。しかし1984年、慶應義塾高校の数名の学生が、偶然雑誌でラクロスに出会い、「これだ!」と思ったことで、日本のラクロスの運命が動き出しました。彼らは1986年、大学に入学したのを機に駐日アメリカ大使館に問合せをし、日本にラクロスを広めたがっている人がいるとある方を紹介されました。それが「日本ラクロスの父」とも言われている、日本ラクロス協会の初代理事長ノリオ・エンドー氏だったのです。

この話をなぜ私が知っているかというと、もちろん現協会理事長や大学の恩師が上述したメンバーの一部であったことも、また慶應や青学が1988年の初回のリーグ戦から参加しており、それぞれのOBGからそういった話を聞く機会に恵まれてきたことも関係しています。しかし最大の理由は、私が慶應大学在学中、ノリオ・エンドー氏が一度協会設立20周年のタイミングで来日したことがあり、ご本人から実際にお話を聞いた経験があるからなのです。

ノリオ・エンドー氏は、日系アメリカ人で、ラクロスの名門校・ジョンズ・ホプキンス大学の出身。また、海軍のエリート部隊「トップガン」の元パイロットでもあり、1986年当時は、航空機会社の極東地区社長を務めていたため日本に駐在していたそうです。

すべての始まりは、慶應女子ラクロス部の母でもある脇村(旧姓:藤井)美和子さんがエンドー氏にかけた「ラクロスを広めたいのでぜひ会いたい」という一本の電話からでした。そこからノリオ・エンドー氏は男子部の創設メンバー5名とも会って、彼らにスティック数本と基礎練習入門ビデオを渡し、手探り状態での活動が始まったそうです。エンドー氏は母校のジョンズ・ホプキンズ大学にも連絡をとり、同年の夏頃には同大学のHCが来日。彼からさらに10本のスティックを贈られた創設メンバーは、そのとき初めて本場のラクロスを教わったといいます。そこから多くのアメリカのラクロス関係者の力を借りながら、翌年には日本ラクロス協会が設立され、日本初のラクロス試合も行われました。現在、ラクロスのSNS上でも少し話題にあがっている ”Keep the fire burning” という言葉は、1987年に日本に初来日して以来、何度も訪日してトレーニングキャンプを開催したドン・ジマーマン氏が、この頃の日本の選手に贈った言葉です。その後、仲間は次第に増え、1988年には日本学生連盟が発足し、そこからは多くの皆さんもご存知の通り、カレッジスポーツとして着実に成長し、現在に至ります。

この話を大学生で聞いた当時、ラクロスを何もないところから始めようと思った創設時代の方々と、そのために手を貸してくれたノリオ・エンドー氏とアメリカのラクロス仲間を、ただただすごいなと思ったことを記憶しています。なぜ誰もやったことのないことを急にやろうと思えたのか、なぜ遠い国の学生のためにそこまで親身になってくれたのか。当時はすごいという気持ちばかりが先行し、私にはよく理解できませんでしたが、それと同時に、ラクロスをそこから広めてくれた人たちがいて今があるということに対し、新たな尊敬と感謝を覚えました。

ノリオ・エンドー氏の話を聞いてから13年の月日が経ちましたが、あれから自分自身のラクロス界での立場も変わり、あの時わからなかったことが少しずつ分かってきたように思います。今では、北は北海道から南は九州まで、全国各地でラクロスを教える機会もありますし、幼稚園生から50代の方々まで様々な年代の人とラクロスを一緒にする機会もいただいています。なぜそこまでするか、自分自身が聞かれるようにもなりました。明確な答えはありませんが、それは新しいことを誰かとしているとワクワクするからです。30数年前の彼らもこんな感情だったのかなと、当時よりは理解できるようになりました。SELLも未開への挑戦の一つの形ですし、日本代表もまた、新たな道を切り拓く存在でありたいと思い取り組んでいることです。

日本のラクロスでは未開の要素が本当にまだたくさんあります。30数年前のあのとき、日本ラクロスの未来を切り拓くことが数名の大学生とノリオ・エンドー氏にとって未開であったように、現在も“今のラクロス”にとっての未開要素が多くあります。ケネディは、未開の土地が地理的になくなったアメリカにおいて、別分野の未開の地「ニューフロンティア」を新たに提示しました。それと同様に、日本のラクロスには30年経ったいま、我々が挑むべき「ニューフロンティア」がたくさんあるのです。だからこそ、初代の方々が抱いた以上のフロンティア精神を持って、我々は次の時代に挑むことが、いまの時代のラクロスを楽しむためには必要なのだとも思います。

日本ラクロス協会が2018年に一般社団法人を設立したときに掲げた理念は、「私たちは開拓者だ。」です。これは日本でまだ知られていなかったこのスポーツを、わずか数人が広めていったことからはじまった開拓者精神が、この先にも受け継がれることを何よりも大切にしている証です。協会理事長から3月末に発表されたメッセージの中でも、「フロンティア精神は、昔からの仲間たちにも、新しい仲間たちにも、同じように宿っている。」という形でフロンティア精神の継承について言及されていました。

30年前、ノリオ・エンドー氏が慶應の当時の学生に手を差し伸べてくれたように、今度は日本がアジアにおいて手を差し伸べる番だということを、自らの行動をもって示してくれている人たちもいます。2018年、2020年と二度にわたって、ラクロス未開の地ミャンマーでクリニックを実施しているMyanmar Lacrosse Clinicは慶應女子ラクロス部の後輩数名が立ち上げたプロジェクトです。彼女たちの「ニューフロンティア」への挑戦に全国の多くのラクロッサーが賛同し、クロスの寄付やクラウドファンディングへの協力、そして実際にミャンマーを一緒に訪れる仲間が多く集まったことでラクロス界に大きな反響を呼んだのは皆さんの記憶に新しいのではないかと思います。

彼女たちが大切にしている言葉に「Lacrosse is Limitless」、つまりラクロスには無限の可能性がある、というものがあるそうです。いまの時代のラクロスには「ニューフロンティア」がたくさんあり、ミャンマーへの普及はその一つにすぎません。だからこそ、そこには無限の可能性がある。それをチャンスだと捉え、楽しみながら彼女たちのように挑戦するか、それとも、フロンティアはフロンティアのまま触れないでおくか、それは自分次第だということです。

余談ですが、彼女たちはそれぞれ仕事もバリバリやっており、日々の仕事と並行してこのプロジェクトを進めたと聞いています。大学を卒業したあと、ラクロス界で選手として活動を続けるのももちろん素晴らしいことですが、社会に出てから、選手やスタッフを続ける以外の形でもラクロスを通してこんな新しい意味のある素敵なチャレンジもできるのだということを、全国の学生の皆さんには知ってもらいたいと思います。

今回は、企業を通してラクロスで学んだことをどう生かしたか、ということよりも、日本のラクロスの根底にあるこのカルチャーと、「ニューフロンティア」に直面している我々の目の前にあるラクロスの無限の可能性について書いてきました。社会に出て、ラクロスを選手として続けなくても、ノリオ・エンドー氏やMyanmar Lacrosse Clinicの皆さんが示してくれているように、ラクロスコミュニティだからこそ挑戦ができる「ニューフロンティア」はたくさんあります。もちろん、ラクロス以外の仕事でも私生活でもきっと、新たなフロンティアに直面することもあると思います。そのときに、そこにチャレンジする開拓者精神=フロンティア・スピリットを持つことは、日本のラクロスコミュニティにいる全ての人が、大切にすべき考え方です。

社会に出てから在籍した企業の中で、圧倒的にフロンティア精神が旺盛だったのが、ナイキでした。そしてナイキジャパンよりも、ナイキ本社の方々からその印象をより強く受けたように思います。西部開拓時代の道として有名なオレゴン・トレイルがあるアメリカ西北部のオレゴンに本社があるだけあってなのか、「マーケットプレイスのフロンティアについて」というような大きな議論が、よく本社との会議では繰り広げられていました。ナイキは日本のオフィスですら千葉支社はグラウンド・テニスコート・バスケコート・ジムが併設されており、社員は自由に使える素晴らしいオフィス環境ですし、在籍していたときにちょうど移転した六本木のオフィスもまた、これでもかというくらい今までのオフィス概念を覆しており、非常に斬新なものでした。これは“自由なオフィス環境でこそ、新しい発想が生まれる”という考えに基づいているそうで、アメリカの本社にはより開放的かつ斬新で自由な空間が広がっています。ワークアウトして汗だくのまま、スナックを持って会議に来るというようなこともよくありました。オフィス環境はほんの一例ですが、フロンティアを見つけてはすぐに挑むような行動力があり、その文化を非常に大切にしている会社だと常に感じていました。

ちょうどナイキで働いていた2017年、創始者のフィル・ナイト氏の自伝「シュードッグ」が発売され、すぐに10万部を突破するベストセラーとなりました。この本はナイキが成功するまでの約20年間の物語で、危機一髪というような状況を何度も潜り抜けていまのナイキの大成功があることが綴られています。とはいえ、フィル・ナイトはこれをサクセスストーリーというよりも、成功の保証など何もないのにフロンティアに挑み続けた数人の仲間との成り上がりの物語のように綴っており、開業当初の窓もないような古いオフィスで、お昼ご飯も買えないような生活を送っていた時期の描写が多く含まれています。決して完璧なプランがあったわけではなく、靴の開発に未開の可能性を感じ、それを追いかけ続けていたらこうなった、という流れの話なのです。なので、ナイキのロゴや名前の由来も、土壇場で決まったもので笑ってしまうほどこだわりがない。ただ、それでも譲れない信念は一貫してあって、それを感じられる物語でもあります。後にナイキジャパンの初代社長がインタビューで答えていることですが、ナイキジャパンが立ち上がった当初、ナイキのスローガン「JUST DO IT.」を日本語に訳そうと検討していたら、本社に呼び出され、絶対に訳すなと直接命令されたそうです。そしてその時にフィル・ナイトが言った言葉が下記だったといいます。

「いかなるアスリートにとっても、最初の一歩を踏み出すことは決してやさしいことじゃない。実際に行動に移る、その小さな勇気こそJUST DO IT.なんだ。その勇気を持つ人々を、そしてそうなりたいと思う人々を、応援しサポートしていくのがわれわれの仕事なんだ」

「シュードッグ」の物語も、1962年のある日の朝にフィル・ナイトがランニングをする準備をして、朝のトレーニングのつらい一歩を踏み出し、駆け出すというシーンから始まっています。フィル・ナイトはナイキのスローガン “JUST DO IT.” に、「一歩を踏み出す」ことへの想いを込めたのだと思いますし、ナイキは怖さや不安を覚えるフロンティアへの挑戦に対しても一歩を踏みだせる場所であることを大切にしていた会社だったのだなと、今振り返って感じています。フロンティア精神を育む職場環境という意味では学ぶことがとても多い会社でした。

ラクロスはナイキ同様にフロンティア精神を育む環境であると私は思っています。だからこそ、「ニューフロンティア」から目を背けないこと、そしてそこから「一歩を踏み出す」勇気が大切です。誰もやっていないから面白い、そんなフロンティアならではの楽しさが、その先に待っていると、私は思います。

SELL代表
柴田陽子

▶︎Profile
柴田陽子(1987年生まれ、兵庫県出身、神奈川県在住)
【学歴】
・大阪教育大学教育学部附属高等学校池田校舎卒業
・慶應義塾大学総合政策学部総合政策学科卒業
【社会人歴】
・アクセンチュア(SAPを専門に取り扱う部門でクライアント企業へのSAPシステムの導入プロジェクトに携わる)
・リクルート(リクルート住宅部門注文住宅グループ神奈川チームにて住宅雑誌「神奈川の注文住宅」の営業)
・WWE(米国最大のプロレス団体の日本法人にてマーケティング、ライセンシング、セールスなどをサポート)
・ナイキジャパン(通訳チームの一員としてスポーツマーケティング、ロジスティックス、テック、CSRなどの視察や会議の通訳および資料翻訳を担当)
・電通(オリパラ局の一員として東京大会の各競技のスポーツプレゼンテーションを企画。チームの国際リエゾンとして豪州のパートナー企業との交渉も担当)
・Second Era Leaders of Lacrosse(代表として団体創立に携わり現在に至る)
【ラクロス選手歴】
(所属チーム)
・慶応義塾大学女子ラクロス部(2005年~2008年)
・FUSION(2009年~2013年)※2010年~2012年主将、2013年GM
・CHEL(2014年~2016年)※2015年主将、2016年副将
(選抜チーム)
・U20関東選抜(2005年)
・U22日本代表(2008年)
・日本代表(2009年~2011年 )※2009年W杯参加
【ラクロスコーチ歴】
(所属チーム)
・慶応義塾大学女子ラクロス部AC(2009年)
・青山学院大学女子ラクロス部HC(2010年~現在)
(選抜チーム)
・U20関東選抜AC(2012年)
・U20関東選抜HC(2013年)
・U19日本代表AC(2015年)
・日本代表AC(2017年)
・全国強化指定選手団AC(2019年)
・日本代表GM兼HC(2020年~現在)
【主なラクロスタイトル】
(選手)
・関東学生リーグベスト12(2007年)
・東日本クラブリーグ優勝(2011年・2012年 FUSION、2014年 CHEL)
・全国クラブ選手権優勝(2011年 FUSION)
・全国クラブ選手権準優勝(2014年 CHEL)
・全日本選手権準優勝(2011年 FUSION)
・全日本選手権3位(2014年 CHEL)
(コーチ)
・全国最優秀指導者賞(2018年)




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