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【ラクロスコラム】#20 私がラクロスから学んだもの File.005|SELL代表 柴田 陽子

「私がラクロスから学んだもの」シリーズは第5回目の今回がラストです。最終回はこの人にお願いしたいと、この企画を始めるときから決めていました。私のラクロス人生はこの方抜きでは語れません。
私と同世代より上の方にとっては超有名人であり、私がラクロス界で最も尊敬している人。
竹内(旧姓:澤田)彩さんです。

私は彩さんにラクロス人生を救ってもらったことが2回あります。一度目は2009年の日本代表活動。W杯前年の11月、すでに社会人を中心に活動していた代表チームに、私を含めた数名の大学生が後から合流しました。それまでは社会人のラクロス選手と交流する機会があまりなかったため、初日は雰囲気に圧倒されてしまったのを覚えています。中でも彩さんは髪の毛が茶髪ボンバーで声が一番大きく、一際目立つ存在でした。しかし、彩さんは居場所がない追加招集組に自ら声をかけてくださり、チームの雰囲気を明るくしている「日本の元気印」という代表でのキャッチフレーズをそのまま絵に描いたような人だということは、初日のうちに知ることとなりました。その頃の代表では1000m走を毎回走っていたのですが、彩さんはとにかく1000m走も速くて、最初の数か月は同じ代表でも雲の上の存在でした。

その後1月末に米国遠征に行った際、苗字のおかげで行きも帰りも彩さんと飛行機の席が隣同士という幸運に恵まれ、初めて色々な話をしました。急に「誰にも言ってない秘密話してもいい?」と言って、実は遠征前日にバイクで事故に巻き込まれていたという衝撃的な事実を帰りのフライトで聞かされたことは今でも忘れません。その機内の時間や遠征全体を通して、話せば話すほどどこか身近で、親身で、温かさを感じる彩さんの人柄をより深く知ることができ、私にとって彩さんは雲の上の存在から“目指したい存在”へと変わっていきました。

私は元々ATとして代表に追加招集されていたのですが、遠征前に彩さんと同じ守備的MFのポジションにコンバートされたのもあり、それからはひたすら彩さんを見ていました。彩さんに憧れてスパイクを変え、彩さんを見習い毎日10キロ走り込むようになり、ついには彩さんを追いかけてFUSIONに入りました。彩さんはどんな練習にも100%を懸ける人であり、誰に対しても100%で向き合う人です。良い意味で、頭であまり考えすぎず、そんな彩さんを見て自分も真っ直ぐな人になりたいと思うようになりました。これが私のそこからのラクロスのプレイスタイル、コーチスタイルの原点になっています。

代表に招集された当時、すでに就先職も決まっていて卒業旅行にもたくさん行きたかった私には、ラクロスを辞める理由が続ける理由よりも遥かに多くあるように感じていました。日本代表活動の最初の数か月間、自分の実力不足に心が折れそうになり、何度か「もうこのままラクロスをやめようかな」という考えが頭をよぎりました。しかし、代表活動で彩さんに出会い、彩さんのような選手・人になりたいと思ってからは、一度も辞めようと思ったことはありません。12年経った今も、私の人生を大きく動かした出会いだったと思っています。

代表が終わってからも、彩さんとはFUSIONで3年間チームメイトでした。私が主将をやっていた頃、彩さんはある他のメンバーと「澤島」という伝説のコンビを組んでおり、一度は後輩に引き継いだイベント係にまた返り咲いて、毎回の飲み会にも100%の情熱を注いでいました。また、年に1回“バカンス”というキャンプイベントを行っていたのですが、FUSIONではリーグ期間中もそのイベント優先で予定を組むくらい「仲間と楽しむ」という文化が根付いており、それは紛れもなく澤島の存在があってのことでした。このあたりはコラム#3でも書いているので割愛しますが、FUSIONの仲間との思い出は今でも私にとって宝物で、彩さんはフィールドの魂として、そして夜の試合のエースとして、色濃く記憶に残っています。


関西遠征で練習場所であった大学のキャンパスを間違えて大遅刻して一緒に土下座した思い出

2度目にラクロス人生を救ってもらったのは、彩さんが現役を引退した3年後のことです。彩さんはその前の2年間、私の母校慶應のACを務め、慶應史上初の日本一にも大きく貢献してくださりました。一方で私は、2013年に青学の2部降格が決まり、完全に自信を喪失して一度青学のチームから離れていました。FUSIONでのプレイにも楽しさより責任感を強く感じるようになり、現役引退も真剣に考えていました。(この辺りの経緯は詳しくはコラム#8#16をご覧ください)いっそ、ラクロス界から一気に身を引いてしまおうと思っていた矢先、なぜかFUSIONの大先輩のご自宅で飲んでいた流れで、彩さんと深夜に真剣にラクロストークをすることになりました。そのときに、私が「青学のコーチを辞める」と口にすると、彩さんは「しゅんがそんなことで辞めるなんてもったいない。だったら私が青学に行くから一緒にコーチしよう」と言ってくださったのです。そして次は節分の日に、彩さんと旦那さんと恵方巻を食べながら、彩さんの家でもう少し真面目に青学についてお話をして、それから数か月後、彩さんは本当に青学に来てくれました。

そこから4年間、彩さんは青学で私と一緒にコーチをしてくれました。彩さんと青学で歩んだ日々はHCとACではなく、本当に2人3脚でした。彩さんは背負いすぎてコーチを楽しむことを忘れていた私の荷物を、半分背負って一緒に歩いてくれた人です。私以上の情熱を青学にかけ、私と対等の立場で青学を引っ張ってくれた唯一無二の相方です。私はあの時、誰にACをやると言われていても、それだけでは青学には戻ることはなかったと思います。私が辞めない唯一の方法であっただろう“2人3脚”という選択肢に、日本一のチームでのコーチ機会を捨てて賭け、そこからの4年間を一緒に歩んでくれたこと、感謝してもしきれません。

2部降格からのスタートであった初年度、彩さんは青学に様々な変化をもたらしてくれました。幹部MTGは毎回お酒とともに行い、家族感謝祭を一から選手とつくりあげたのも彩さんです。今まで一人でやっていた幹部とのMTGにも、すべて彩さんも出席してくださり、DFは彩さんのもとで一からマンツーマンディフェンスを見直しました。そのシーズンの思い出のひとつひとつに彩さんがいて、彩さんのおかげで楽しいことばかりでした。その翌年、彩さんの力で、日本のトップゴーリーでありFUSIONの後輩の岩田麻衣子がコーチに加わってくれました。麻衣子はそこから5年間、実は私にとってはどのコーチよりも長く一緒に青学をつくってくれた存在です。青学がFINAL4の壁を破った瞬間、麻衣子とベンチで目が合い、お互いに「やっとここまできたか」というような無言の笑みだけの会話を交わし、そこに来るまでの何年もの思い出が超高速で頭に蘇りました。そして、「彩さんにこの景色見せたかったな」と、きっと二人ともあの瞬間に同じことを考えていたと思います。

彩さんは、青学でコーチをしている間に2人のお子さんを出産しました。一人目の出産のときは、本当にスイカのような臨月のお腹のまま、夏合宿にまで参加してくれました。MGが万が一に備えて、合宿所の近くで出産できる近くの医療機関などを調べ尽くしたり、ゴール裏に設置された彩さんの椅子とパラソルの前に、彩さんを守るボディーガードのように選手たちが群がっていたりしましたが、それはそのような大事な時期にでも自分たちのために合宿に来てくれた彩さんへの、部員なりの精一杯の誠意だったのだと思います。その約数週間後に天使のようにかわいい長男を出産するのですが、彩さんは出産から1週間後にはもうリーグ戦のベンチに立っていました。2回目の出産のときは、お母さんや旦那さんに長男くんを数日見てもらってまで、また臨月のお腹とともに合宿地に足を運んでくれました。子どもを連れて練習に来てくれるのは日常でしたし、彩さんの息子は青学のアイドルでした。(息子は次第に私が来るとお母さんを取られることに気づき、私を見た瞬間泣くようになりました。)3年目からは家族で茨城に移住し、それでもそこから2時間かけて子どもと一緒に練習に来てくれていました。最後の年は、彩さんから遠方かつ妊娠している中でのコーチは厳しいという話を受けたものの、1年生から彩さんに見てもらっていた代が最後まで彩さんに見てほしいという想いが強く、28期の幹部が茨城へ何度かコーチ依頼を直談判しにいき、結果的に、月1回茨城に選手が赴いてデイキャンプをするという形で4年目のコーチが実現しました。


青学のアイドル

彩さんは、選手にそこまでしたいと思わせる人です。なぜなら、それだけ選手と常に全力で向き合ってくれているから。代表でも、FUSIONでも、そして青学の選手に対しても、いつだって本気で全てを懸けて向き合ってくれていると思えました。「全力で向き合う」とよく言いますが、本当に自分はやりきれているのか、臨月でも子どもがいても、どうにかして来てくれる彩さんを見ると、自分ももっとできるっていつも思っていました。彩さんはどんなことも言い訳にしなかったし、無理だとも思っていなかった。青学は絶対に日本一になれると、誰よりも最初から最後まで信じてくれていた人です。

彼女から学んだこと…

・無理だと思って自分で限界をつくらないこと
・誰にでも対等に接すること
・誰にでも正直であること
・これだもかというくらい頑張ること
・自分の人生を懸けて、誰かの人生に関わること

私がラクロス界一尊敬する人は、文章も本当に真っすぐな方です。一人でも多くの方に読んでほしいと思います。

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■自己紹介
竹内彩(旧姓 澤田)
1982年生まれ37歳 柴田さんの4個先輩です。
2児の母
現在、元アスリートの肩書きとお料理の特技を生かし、アスリートフードマイスターとして栄養指導やお料理教室をしています。
昨年家族で農地を購入し千葉県南房総に移住をしました。
季節のお野菜を育てたり自然に近い生活をしています。
小学校から高校まではバスケットボールを結構真剣にやっていました。

【ラクロス選手歴】
<所属チーム>
・日本体育大学女子ラクロス部(2001年〜2004年)
・FUSION(2005年〜2011年)

<選抜チーム>
・U20関東選抜(2002年)
・日本代表(2004〜2005年、2008年〜2009年、2010年)※2005年、2009年W杯参加

【ラクロスコーチ、スタッフ歴】
<所属チーム>
・明治学院大学女子ラクロス部AC(2010年〜2011年)
・慶応義塾大学女子ラクロス部AC(2012年〜2013年)
・FUSIONスタッフ(2013年)
・青山学院大学女子ラクロス部AC(2014年〜2018年)

<選抜チーム>
・U19日本代表AC(2007年)
・U20関東選抜AC(2009年)
・U18関東選抜AC(2015年)
・U19日本代表 栄養指導サポートスタッフ(2019年)

【主なラクロスタイトル】
・関東学生リーグベスト12(2003年、2004年)
・関東学生優秀選手賞(2004年)
・全日本選手権優勝(2008年)
・東日本クラブリーグ優勝(2008年、2011年)
・全国クラブ選手権優勝(2008年、2011年)
・全日本選手権準優勝(2011年)

■柴田との関係

シュンが学生の頃、私が慶應の練習にちょこちょこ行かせてもらっていた事はありましたが、絡みはまったくありませんでした。
2009年の代表活動から急接近。
アメリカ遠征の飛行機が行きも帰りも隣で仲良しになりました。
実家が隣の駅で車で15分ほどという事実も発覚。(どうでもいい?)
同年、私が社会人5年目の時にシュンもFUSIONに入ってくれてここからがシュンとの付き合いがより深まっていきました。
シュンとは3年間一緒にプレイしたけどシュンが作り出すブレイクが大好きでした。
日本代表でのキャッチフレーズ “スペースの殺し屋” 守備から攻撃への切り替え、ブレイクへの嗅覚が抜群でいいスペースに飛び込む。
相手DFのおとりになり味方へチャンスをつくる、もしくは自分自らゴールのチャンスをつくる。
常に全力プレイで鋭い左の1on1を決めて息切らしてベンチに帰っていくのが印象的。力を残さない。
余談ですが、このキャッチフレーズを聞いたシュンのお母様は「陽子ちゃん殺し屋になっちゃったのね。」と。
この素晴らしいキャッチフレーズの意味をまったく理解していませんでした。笑
とても名誉な殺し屋なのに。。。
シュンの存在感、影響力は群を抜いていて翌年には主将に抜擢。
部内の改革が始まりベテラン組の私もとても刺激を受けました。
2011年で私は現役を引退し、シュンとは3年間一緒にプレイをしたけど、日本一には届かす、シュンを胴上げする事は叶いませんでした。

2013年私は森の中で手作り結婚式をしました。
ありがたいことに20人くらいの後輩達に手伝ってもらえることになりました。
事前の結婚式ミーティングで後輩達に集まってもらった時、シュンが自分のパソコン開いて流れを決めて役割を割り振って段取りをしてくれました。シュンがいなかったら成り立っていませんでした。プロデューサー業までありがとう。

その翌年2014年、青学のコーチをシュンと一緒にすることになりました。
経緯は色々ありましたが長くなるので割愛します。(シュンが上手に説明してくれるかも?)
シュンを日本一にしたいというのが当時の私の1番の動機でした。
そう思わせてくれるのもシュンの魅力の1つです。
そこから4年間一緒にコーチをする事になったのですが、シュンの天才ぶりと人間臭さを目の当たりにして濃い濃い4年間でした。
その頃の私のプライベートは4年間で2回の妊娠出産。2人とも臨月で合宿参加。(お腹スイカ状態w) 1人目の産後1週間で試合のベンチに入るといった家族ぐるみでコーチをさせてもらった4年間でした。
このように振り返ってみるともう10年以上もお友達です。
すっごく天才なんです。知れば知るほど人間味があって、感情的になったり涙もろかったり、オンオフのスイッチが強烈すぎて、とにかくすごい!と関心する事の連続でした。
私の語彙力が乏しく1/100も伝えきれていないですが、とても魅力的な人です。大好きです。

もっともっと柴田さんとの関係書きたいけどこの辺で終わります。

■ラクロスから学んだこと

【① 作戦は”がんばる”】
自己紹介文とか見てもらうと華々しい経歴に見えますが、私はラクロスがド下手でした。
大学1年生の時チームでレベルをA〜Nに分けれられて私はレベル“M”でした。
1年生の時は怪我していたとか、やる気がなかったとかではなく、純粋な下手くそでした。
バスケットもそれなりの強豪校でやっていたし足とかもまあまあ早かったんですけど、センスがなかったのです。
クロスを使ってパスとキャッチが苦手だったんですね。致命的です。
それでもラクロスって楽しいなとか純粋に思っていて毎日自主練をしました。
大学1年の時、海浜自習という海で4kくらい遠泳する実習があるんですけど、自主練しなきゃとか思ってクロス持って行って、反省文書かされました。(当たり前ですが実習に関係ないもの持っていくの禁止。ごめんなさい。)
それくらいがんばっていたら日本代表になれました。
1回目のW杯の時は社会人1年目の年で学生の頃の貯金があったので体力面では不安はありませんでした。
その4年後、2回目のW杯の時は私の売りであるフィジカル面を特に意識して代表活動に臨んでいました。
平日は仕事の前に学生の練習に参加させてもらったり、自主トレーニングと走りこみ。
練習場所や時間が合わない時などは個人利用できる陸上トラックなどで走り込んでいました。
今でも覚えているのが仕事前に陸上トラックで200メートル走を何本かタイムを測りながら走っていたのですが、どうしても目標タイムに届かず1人で涙した事がありました。
プレッシャーに押しつぶされそうになったのは過去にこの日だけなんですけど辛かったなー。
その涙も無駄にならすに1000メートル走(当時の代表練では毎回計測ありました。)で1番の座を死守し続け、2度目のW杯の切符を手に入れました。

私の原点は“がんばること”

【② 人の心を動かしたい】
ラクロスを始めた頃はがんばっていただけでしたが、次第にチームのトップになる頃には“日本一になりたい”とか“世界でメダルを獲りたい”とか思うようになってきました。
前述したとおり器用ではないタイプの私は常に全力プレイ、ベストを尽くす事を心がけていました。
そこの集大成が“人の心を動かしたい”
スタンドで見ている人が感動してくれたり、一緒に戦っている仲間が“アヤががんばっているからがんばろう!”と思ってくれたら最高と自分自身のモチベーションにして戦ってきました。

【③ まいっかの精神】
まいっかとは妥協ではなく、気持ちの切り替えの意味として。
現役の頃、メンタル面で気持ちの切り替えを大事にしていました。
レベルMから日本代表になれたのだから、メンタルは強い方だと思います。それか鈍感か⁉️

私は今子育て真っ只中なんですが、“がんばること” “人の心を動かしたい”は子育ての軸になっています。
例えば挨拶しない我が子に対して私が全力で挨拶をしているところを見せたりとか。
まずは自分で行動したいと心がけています。
それでも4才と2才のワンパク盛りの男の子を育てていると、フリーズしそうなでき事が多々起きます。
最近の出来事で言えば、長男が家の中にダンゴムシを大量に持ち込んできて「え?」となっている時、網戸にもたれかかっていた次男が網戸ごと外に落ちるという悲劇が同時に起きた時・・・
「ん・・・・。」をこらえて「まいっか!」と呪文のように唱えると、いったん心が落ち着きます。
物理的解決方法には何もなりませんが、気持ちを切り替える事で、ダンゴムシが家にいても誰も怪我はしないのでまずは次男の救出するかとなります。
こんな事も実はラクロスから学んだ事なのかなと思ったりしています。

■今振り返って、ラクロスやっていてよかったと思うこと

ラクロスは私の人生を豊かにしてくれています。
人との出会いもその1つ。
大学でラクロスに出会い卒業して16年経っても今でも親戚かなと思える絆で結ばれている大学同期(通称おたまメンバー)
まさか社会人ラクロスにこんなにもどっぷりのめり込むとは思わなかったFUSIONメンバー。
ユースや日本代表活動で出会った方々。
母校ではない3校のコーチをさせていただいてそこで出会った当時の現役生、OG、スタッフのみなさん。

生涯のパートナーとは、日体ラクロスで出会い4年の交際後6年解散した後、結婚。出会ってから18年。結婚7年目。2人の子宝。

ラクロスをやっていた事で私の人生はより幸せになりました。
と断言できます。

直近で言えば、28期のコラムを読んでいて涙が出たこともその1つ。
今やラクロス界の大御所柴田さんのコラムに、現役の方々の世代を超えまくって私がここに登場させてもらった事もラクロスやっていてよかったなと思うことです。ありがとうございます。

読んでくださったみなさんありがとうございました。

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ラクロスで学んだことよりも、私の紹介のほうが長いくらいのところもまた、彩さんの人柄の表れだと思います。

彩さんは、現在ご家族と南房総で自然溢れる暮らしをしていて、森の中での手作り結婚式もいまの暮らしも、もはやラクロスだけでなくライフスタイルが私の憧れです。現在、@ganbarerugohan という料理にインスタアカウントで食材や料理の紹介をしていますが、それともう一つのアカウントの子供たちの写真を見て私は日々自分も頑張ろうと思います。

どれだけいい作戦を立てても、結局はそれをどれだけ頑張れるか。ロジックよりもそこのハートが大事だと私に思わせてくれた人です。本気の頑張りや人生を懸けて向き合うことを彩さんの行動を以て理解したとき、私の人生観が大きく変わりました。自分自身ももっともっと人の心を動かせるような人間になりたいと今は思っています。

SELL代表
柴田陽子

▶︎Profile
柴田陽子(1987年生まれ、兵庫県出身、神奈川県在住)
【学歴】
・大阪教育大学教育学部附属高等学校池田校舎卒業
・慶應義塾大学総合政策学部総合政策学科卒業
【社会人歴】
・アクセンチュア(SAPを専門に取り扱う部門でクライアント企業へのSAPシステムの導入プロジェクトに携わる)
・リクルート(リクルート住宅部門注文住宅グループ神奈川チームにて住宅雑誌「神奈川の注文住宅」の営業)
・WWE(米国最大のプロレス団体の日本法人にてマーケティング、ライセンシング、セールスなどをサポート)
・ナイキジャパン(通訳チームの一員としてスポーツマーケティング、ロジスティックス、テック、CSRなどの視察や会議の通訳および資料翻訳を担当)
・電通(オリパラ局の一員として東京大会の各競技のスポーツプレゼンテーションを企画。チームの国際リエゾンとして豪州のパートナー企業との交渉も担当)
・Second Era Leaders of Lacrosse(代表として団体創立に携わり現在に至る)
【ラクロス選手歴】
(所属チーム)
・慶応義塾大学女子ラクロス部(2005年~2008年)
・FUSION(2009年~2013年)※2010年~2012年主将、2013年GM
・CHEL(2014年~2016年)※2015年主将、2016年副将
(選抜チーム)
・U20関東選抜(2005年)
・U22日本代表(2008年)
・日本代表(2009年~2011年 )※2009年W杯参加
【ラクロスコーチ歴】
(所属チーム)
・慶応義塾大学女子ラクロス部AC(2009年)
・青山学院大学女子ラクロス部HC(2010年~現在)
(選抜チーム)
・U20関東選抜AC(2012年)
・U20関東選抜HC(2013年)
・U19日本代表AC(2015年)
・日本代表AC(2017年)
・全国強化指定選手団AC(2019年)
・日本代表GM兼HC(2020年~現在)
【主なラクロスタイトル】
(選手)
・関東学生リーグベスト12(2007年)
・東日本クラブリーグ優勝(2011年・2012年 FUSION、2014年 CHEL)
・全国クラブ選手権優勝(2011年 FUSION)
・全国クラブ選手権準優勝(2014年 CHEL)
・全日本選手権準優勝(2011年 FUSION)
・全日本選手権3位(2014年 CHEL)
(コーチ)
・全国最優秀指導者賞(2018年)




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